2014年8月14日木曜日

2014-08-14

墓は、残された者が己の心と向き合うためのものなので、近場にあった方が良い。

2014/8/14付

 3代前から東京で暮らしている。祖父母が生まれた広島に、今はつき合う親戚もいないけれど、先祖代々の墓は広島の寺にある。東京で亡くなった祖父母も、広島に長く住んだわけではない父も、そこに眠っている。墓参りに行かねばとも思うが、足が遠のいて久しい。

▼墓とは誰のためにあるのだろう。3.11から半年たった頃、津波の被災地を走った折の光景が忘れられない。建物の跡形もない土地が延々と続く中で、太陽を反射してキラリと光る一画が所どころに現れる。真新しい御影石の墓石が整然と並んでいた。地元の人々が何よりも先に再建したのは、失われた命の居場所だった。

▼親鸞は、墓の下に死者の霊が集まることなどないと教えた。自らの死期が近づいたときに、こう語ったと伝えられる。「某(それがし)閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」(改邪鈔(がいじゃしょう))。それでも人は亡き親や友に手を合わせる所がほしい。墓とは去った者のためでなく、残された者が己の心に向き合うための装置であるに違いない。

▼ならば墓は近い方がよい。豪華な本堂の改修やら行事やら、高額の寄進を催促する手紙を送ってくるばかりの寺との関係には、いささか疲れてしまった。そう嘆く声が少なくない。不義理を気に病むより、思い立ったら行ける近場で簡素に樹木葬を、という人も多い。親鸞が現代の宗教の姿を見たら、なんと言うだろうか。
3代前から東京で暮らしている。祖父母が生まれた広島に、今はつき合う親戚もいないけれど、先祖代々の墓は広島の寺にある。東京  :日本経済新聞











[因]
去った者のためではなく、残された者が己の心に向き合うための装置である

[果]
墓は近いほうが良い

<編集過程>
去った者のためではなく、残された者が己の心に向き合うための装置である墓は近いほうが良い。
亡くなった者の為ではなく、残された者が己の心と向き合う為の装置である墓は、近くにある方が良い。
残された者が己の心と向き合う為の装置である墓は、思いたったら行ける場所にある方が良い。
残された者が己の心と向き合う為の装置である墓は、思いたったら行ける場所にある方が良い。
墓は、残された者が己の心と向き合うもの為のものなので、思いたったら行ける近場にある方が良い。
墓は、残された者が己の心と向き合うためのものなので、近場にあった方が良い。

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