2014年12月20日土曜日

2014-12-20

東京駅の外観は修復され変わったが、人が出会い新たな記憶を刻む駅の力は変わらない。

2014/12/20付

 駅は巨大な記憶の箱である。大正11年3月、19歳の娘は夫の待つ欧州へ出発した。華やかな見送りだった。停車場で父は皆の後ろにいた。車が揺れ始めた時、微笑し、うなずくのを見た。それが最後だった。娘は思い出を書いて、作家になった(森茉莉「父の帽子」)。

▼翌年、関東を襲った大地震に耐えた駅舎を俳人高浜虚子は見ている。東京駅で降り丸ビルにある雑誌「ホトトギス」発行所に通っていた。百年前の完成当初は、「こんな広い不便なものを造ってどうするつもりか」というつぶやきも聞いた。すぐに乗降客が増えて、「もう少し広くしておけば」に変わったと回想している。

▼東京大空襲でドームが焼け落ちた。詩人及川均は駅前で玉音を聞いた。記憶は詩になった。「赤錆(さ)びた鉄骨の間から空が陥(お)ちていた。莫大量の重さをせおつて。そして風呂敷包をさげておれは歩きだした」(「昭和二十年八月十五日午後東京駅正面降車口広場」)。3階建てを2階にする応急措置で、戦後60余年が過ぎた。

▼一昨年、ドームを復元し創建の姿に戻った。外観は変化しても箱の力は変わらない。昔、新幹線で着いた父と車寄せ辺りで休んだことがある。暑い日で帽子を置き忘れた。いまも側を通ると、どこかに父の帽子があるような気がしてくるから不思議だ。開業100周年の駅で、今日も人が出会い、新たな記憶を刻んでゆく。
駅は巨大な記憶の箱である。大正11年3月、19歳の娘は夫の待つ欧州へ出発した。華やかな見送りだった。停車場で父は皆の後ろ  :日本経済新聞











[因]
駅は巨大な記憶の箱

[果]
外観は変化しても箱の力は変わらない。

<編集過程>
東京駅の外観は修復され変わったが、駅で人が出会い新たな記憶を刻んでゆく箱の力は変わらない。
東京駅の外観は修復され変わったが、人が出会い新たな記憶を刻む駅の力は変わらない。

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