2014年3月10日月曜日

2014-03-10

首都帰郷による10万人以上の死者は想定内の被害であり、命を軽視する国の考え方に驚く。

2014/3/10付

 「やむをえず方針にしたがうことになりました」。校長先生は子供たちと親を前に、そうあいさつしたそうだ。時は昭和20年3月9日、場所は東京・下町の国民学校。現在の小学校にあたる。卒業生66人を引率、疎開先の宮城県から帰京し、親に引き渡した時の言葉だ。

▼これから空襲がひどくなり、首都がその標的になると予想していた。せっかく疎開している子を戻すのには反対だった。しかし、やむをえずの帰京。国のやり方への反感を公の場で示したのは、当時としてはぎりぎりの発言かもしれない。「くれぐれも空襲から身を守ってあげて下さい」。校長先生は親たちに念を押した。

▼生徒の1人である東川豊子さんのこうした回想を、早乙女勝元著「東京が燃えた日」が紹介している。両親との再会、慣れた町、集団生活からの解放に皆、はしゃいだ。その日の深夜に爆撃機が来襲。子を守ろうとせぬ親などいなかったはずだが、それでも66人の生徒のうち13人が命を失う。東川さんも父と弟を亡くした。

▼この夜の死者は10万人以上。想定外の数字ではなかった。河出書房新社「図説東京大空襲」によれば、東京の防衛に責任を持つ陸軍中将が空襲の前年にこんな論文を発表している。東京の爆撃で約10万人が死ぬ。しかし東京の人口は700万人。「十万人死んだところで東京は潰(つぶ)れない」。命を見る目の軽さに改めて驚く。
「やむをえず方針にしたがうことになりました」。校長先生は子供たちと親を前に、そうあいさつしたそうだ。時は昭和20年3月9  :日本経済新聞

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